ぶらり、大山 〜大山の不思議と素敵を語る〜 大山開山1300年祭 特別コラム

[第8回]ケンパーマン~ハーン~カルシュ
大山に魅せられた明治、大正、昭和初期の外国人

大山寺宿坊理観院の避暑滞在

 大山は古より重要なランドマーク。紀元前も大陸との交易が行われ船が往来していたことも知られています。青谷上寺地遺跡や大山の麓の妻木晩田遺跡などの弥生時代の遺跡からは大量の大陸からの交易物が発掘されていることがその証でもあります。当時から、遠く海から見渡せる大山は航海における灯台のような役割をしていたことでしょう。詳しい記録はありませんが、神話の時代から古代、中世にかけても大陸からの使者が大山を目標に日本に航海したことが想像できます。伝承では、国引き神話(朝鮮半島・新羅から土地に綱をつけて引っ張ってきた)、大山と孝霊山(朝鮮半島から運んできた)の山比べなどが痕跡として残っています。また大山寺の古い寺院跡(寂静山地区の15世紀の僧坊)の調査をした際には、明銭や青磁なども出土し大陸との交易があったこともわかってきました。時代が下った江戸時代、鎖国政策で海外との交易は制限されており交易の記録も当地にはほとんどありませんが、幕末が近くなるといわゆる黒船など外国の汽船が隠岐などに繰り返しやってきた記録が残っています。隠岐からも大山はよく見えますが、彼らも大山を目標物のひとつにしながら航海をしたことでしょうね。当時の外国人のランドマーク大山の印象は知る由もありませんが、近年増えてきた大型クルーズ客船で境港に寄港する外国人の印象に近いことでしょう。

 

<ケンパーマン>

米子港から望む大山の夜明け

 
ケンパーマンの山陰紀行など
 明治時代になり国が開かれると、欧米の外国人が大山と周辺地域にも来訪するようになりました。その中で最も知られている外国人は島根県尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師として松江に赴任したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)です。1890年(明治23年)晩夏の頃です。小泉八雲は複数の著書の中で大山の印象を書き残していますが、それは後述するとして、小泉八雲より13年も前(明治10年)に山陰にやってきて、西洋人として初めて大山に登頂したドイツ人をご紹介します。名はケンパーマン。彼が何者で、何を目的に当地を旅し、大山にも登ったのか、誰も知りません。明治11年にドイツアジア協会の会報にドイツ語で発表された中に、山陰の旅行記が含まれており、それが訳されてこの事実が明らかになりました。当時の中海宍道湖圏域の状況や印象など克明に描かれており、神仏分離令により大山寺が衰退した状況も生々しく表現されています。西洋人としては初めて登山にも挑戦し(2人の案内役を雇い)4時間かけて頂上にたどり着いたということです。10月22日のことです。興味ある方は今井印刷発行の「ケンパーマンの明治10年山陰紀行」(訳・長沢敬)をご覧ください。

 

<ラフカディオ・ハーン:小泉八雲>

小泉八雲が描写した弓ヶ浜と大山

 時が下り、小泉八雲が古事記に導かれて松江にやってきたのは、帝国議会が開設され、教育勅語、大日本帝国憲法が施行された明治23年です。ニューオーリンズで開催された万国博覧会で日本館を訪れ、ここで初めて日本に興味を抱くこととなります。そしてニューヨークで、日本の歴史書『古事記』の英訳『KOJIKI』を読むと、日本への関心(特に出雲神話)はさらに強くなり、縁を手繰り寄せ・・・、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師として松江へ赴任しました。大山との出遭いは、松江に赴任する旅の途上から、松江を旅立つ途上まで幾度もあったようで、複数の著書の中で繰り返し「大山」の印象を表現豊かに描いています。そのいくつかをご紹介します。

小泉八雲 日本の面影

『途方もなく素晴らしい夢まぼろしの姿だ。』と始まる、大山の印象記。日本で最初に発表した著作「知られざる日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan)」の中で松江のことを「神々の国の首都(The Chief City of the Province of the Gods)」と呼び、その章で著された一節です。印象記の文章は続きます。『松江大橋から東のかたを眺めると、大空の果てに鋸(のこぎり)の歯のような刻みをつくりながら、或いは緑に或いは青く、きびしい線の美しさを見せる山並みを超えた更に向こうに、光に包まれた幻が一つ天にむかってそそり立つ。中略。万年雪が夢かと思えるほどに美しい幻の峰、それが巨峰大山(だいせん)である。』 

「杵築(出雲大社)」の章、「美保関にて」の章でも同様に表現されています。杵築へ向かう際、宍道湖上から『松江の街並みの遥か上に高々と大山が聳え立ち~雄大に、霊のように青く白く、万年雪の上に息絶えた火口を憩わせている。その上空には夢のような淡色の、天にかかる青穹(あおぞら)。』 そして美保関への途上、境水道から美保湾の海上にでたところでは、「青い静かな海面が何哩(マイル)も続く向こうに、長くのびる低い伯耆の浜が見える。蜃気楼のように霞んで、その遠くに続く砂浜がまるで果てしない白い条(すじ)のようでそれが青い水面に縁(へり)を付けている。中略。そしてそうしたすべての向こうに、すばらしい形をした大山の霊峰が空に高く浮かび出て、その頂上の筋目は雪を戴いている。」

さらに、松江を離れる際の「さようなら」の章で、『遠く東の空には神々しい大山が、影か幻のように白くそびえている。』 松江の別れを惜しむなかでも大山を象徴的に描いています。

 

<フリッツ・カルシュ>

カルシュ自筆絵画 中海越しの大山

 時代が下った大正14年。小泉八雲の著書に導かれて松江にやってきて、14年間もの間滞在したドイツ人がいました。旧制松江高校(現島根大学)で哲学者であり、ドイツ語の教師を務めたフリッツ・カルシュ教授です。彼はドレスデン国際博覧会で日本と出会い、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の存在を知り、八雲同様に縁を手繰り寄せ神々の首都にやってきました。日本の宗教や哲学、文化にも高い関心をもち、人の認識の発展過程を考究する「人智(じんち)学」を提唱したシュタイナーを日本に紹介するなど、日本の哲学史のうえでも重要な人物としてしられています。カルシュは絵画が趣味で松江周辺や大山を精密に描写しました。また写真も趣味であったようで、数千枚の貴重な風景写真を残しています。中でも当時の大山を撮影した写真は外国人ならではの視点で切り取られ、ググッと引き寄せられる魅力を持っています。初めて大山の雄姿に接したときの衝撃は尋常ではなかったということですが、それは子供の頃に「夢に見た山」だったから。その件をカルシュ研究者の若松氏は著書の中で次のように描いています。

カルシュ 湖畔の夕映え
 カルシュは高畑とともに米子を経て溝口から桝水高原に向かおうとした。天気の良い日だった。見上げると青空が澄んで、筋雲がたなびいていた。フリッツは途中、歩きながら何の気なしにふと東の空を振り返った。このときくっきりと浮かぶ大山の西の側面の美しい姿が目に入った。この風景にフリッツの眼は釘付けになった。同時に彼の身体中に電撃のようなものが走り、しばらく、身動きができなかった。この光景は西から見た雄姿であり、伯耆富士と言われるように美しい。そのとき目に映った均整のとれた姿は、まさに「遠い昔見た懐かしい風景だ。自分のふるさとだ」と思わずその叫びが喉もとを走るほどであった。そのことを娘のメヒテルトは幼い頃、父フリッツから何度も聞かされたという。ありえない不思議な体験といえよう。彼は運命について考えることが多く、仏教でいう輪廻や前世をもよく話題にしたという。

 

 現在は国をあげてインバウンド(外国人誘客)が進められており、多くの外国人が大山や周辺地域に来訪するようになりました。彼らも、ケンパーマン、ハーン、そしてカルシュのようにその風景に魅了されているに違いありません。アクセス拠点の空港や駅、港から大山へのアプローチが整備されると、さらに多くの外国人が大山ファンになっていくでしょう。外国人から見た大山の印象記を集めることができれば、きっとインバウンドの強力なプロモーションツールになることも間違いなさそうだ。

BUNAX

 

フリッツ・カルシュ写真展

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