ぶらり、大山 〜大山の不思議と素敵を語る〜
[第39回]大山の麓・米子の都市デザインの原点を探る
「都市デザイン」という言葉を耳にすることがあります。辞書を引いてみると、『空間・視覚的な関係を軸に、都市全体を個性的で美しく人間的なものにするための手法』とあります。
現代では科学的な手法も用いられて、洗練された街並みや公共建築物を各地でお目にかかるようになりました。ルーツをたどると、古代まで遡ることができそうです。世界最大級の墳墓「大山(だいせん)古墳」(宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理)を含む「百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群」(大阪府)は、今年、世界文化遺産に登録されましたが、まさに古代の都市デザインにあたるのかもしれません。
(写真1)『伯耆志』内海より大山を望む図(※図の中央は亀島)
この「内海(中海)より大山を望む図」は、江戸時代に編纂された『伯耆志』の中に描かれたものですが、米子の都市デザインの一端を確認することができます。米子は戦国時代後半頃までは、主要街道(山陰道)からも離れ、中海に面した低地帯で、自然発生的な集落(半農半漁に加え中海沿岸を繋ぐ船宿が並ぶ小さな街)が形成されていた程度だったようです。1591年、吉川広家が米子城の築城にとりかかり、城下町の町割を始めましたが、これが米子の都市デザインの原点です。
(写真2)写真1と同方向からの夕景(※中央の松林が旧亀島の青洞寺岩)
都市デザインをする際、基準点、基準線が必要になりますが、吉川広家の町割を見るとそれが浮かび上がってきます。基準点のひとつは周知の「米子城」、もうひとつは現在の湊山公園の日本庭園、青洞寺岩付近にあった「亀島」です。そして基準線は、米子城から北に向けた通り(現在の内町通り、立町通り)と、亀島から大山に向けた通り(現在の西町通り)です。
(写真3)城下町米子の都市デザイン
※出典:国土地理院「地図空中写真閲覧サービス」をもとに筆者作成。(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?&topLat=35.4351486479491&bottomLat=35.41948225197792&leftLon=133.3198857307434&rightLon=133.35460424423218¢erLat=35.42731583087816¢erLon=133.3372449874878&zoomLevel=16&selectedYearEraFrom=1111&selectedYearEraTo=9999&selectedEndScale=99999999&selectedStartScale=0&colorTypeArrStr=2_1&dataTypeId=0)
吉川広家は米子城を築城する際、月山富田城から船で飯梨川を下り、中海を渡り、亀島に上陸したということが知られています。そして、ここを荷揚げ用の船着き場として埋め立て整備し、大山に向けて真っすぐに道を設置したのだと考えられます。古地図や西町通り(鳥取大学医学部前の通り)の風景からそのことが確認できます。故に、「亀島」(現在は湊山公園の青洞寺岩)は、米子の一丁目一番地と言ってもいいのかもしれません。江戸時代になり、中村氏が城主になると基準線の方向が若干ずれてきます。そこには何かの理由(地形的な理由や風水的な理由等)があると思われますが、さて何だろう・・・。このあたりのことが見えてくると、江戸時代初期の都市デザインの考え方が理解できるでしょうね。
米子には札打ちという風習が現在も息づいています。これは、伯耆、出雲独自の風習で、全国にも珍しいもの。身内に不幸があったとき、霊を慰め、浄土に着かれるまでお地蔵さんにお守りいただくように祈るため、七日ごとに白札を打ち、おしまいの四十九日目には赤札を貼り法要を行うという風習です。この赤札の最後を締めくくるお地蔵さんは、米子の一丁目一番地的な場所に立つ清洞寺岩地蔵です。その理由をことさら語られることはありませんが、誰もが無意識のうちに理解しているのかもしれません。まさに米子人の原点なのですね。(写真3の右下)
その後の明治、大正、昭和、平成と時代の社会変化に合わせて都市のデザインに手が加えられていきました。交易で船が主流だった時代は、米子港を中心でしたが、鉄道の時代になると米子駅、戦後のモータライゼーションの時代は自動車のための道路(例えば国道9号線)へとシフトしていきました。
都市デザインは時代を映す鏡で、これからも大きく変化していくことと思いますが、「都市全体を個性的で美しく人間的なものにするため」には、先人の街づくりのへ想い“原点~はじまり~”にも心を寄せてみることも必要なのではないかと思います。
(BUNAX)